競争原理という人類史最大の嘘
競争は、人類文明の発展において不可欠で有効な効果をもたらしてきたと評価する人がほとんどだろうと思います。他者と競い合うことで技術は革新し、あらゆる競技において前人未到の記録は更新され続けていきます。多少の弊害は感じても、人々を熱くする最大の関心事はつねに「闘争」です。こっちが正しいんだ強いんだと罵り合い、戦争までいかなくてもスポーツの国際試合は人々を熱狂させています。
しかしエンターテイメント全般を考えてみると、私たちが「燃え上がること」として、競争をベースにした娯楽しか主に与えられてこなかったという、普段は意識しない前提があるといえそうです。私自身、スポーツの国際試合は好きだし選手の活躍には感動します。この競争心というものが私たちの精神の深いところにまで浸み込んでいて、競争なしでは何に対して熱狂すればいいんだという疑問すら湧いてきます。
ここでまだ見ぬ、競争以外の行動原理でまわる世界を想像してみることができるでしょうか。私は本書で語ってきたように、社会をまわす原動力を考えるなら、競争による「強制」よりも、喜びによる「自発」のほうが遥かにパワフルで有効だろうと考えています。喜びでまわる世界が訪れるとするなら、それは世界の根本的な原理は「競争」ではなく、「調和」であるという気づきが始発点となることでしょう。
個々人をみれば、喜びによる自発の人生を実践している人は多くいらっしゃいます。それぞれ自分の心おどる大好きなことに打ち込んだり、誰か何かに必要なことを見返りもなく提供したりする人たち。それでも喜びによる自発は、社会全体で合意された原理にはなっていません。もし、競争による強制の代わりに、喜びによる自発のほうが楽しくていいじゃないかという人々が増えて、競争の代わりに喜びの原理を合意する社会がやってきたなら。社会システムはどう変わるでしょうか。ゲームや音楽、スポーツの在りかた自体もきっと変わることでしょう。
ここで競争による弊害を、思いつく限り挙げてみましょう。
誹謗中傷や差別、批判、いじめや暴力、政治闘争、権力争い、富豪や高貴な者の貪欲、貧困、低賃金、使い捨て、言い争い、誰より先に、取った取られた、損だ得だ、割り込んだな、高級車に乗ってるんで、ブランドものじゃないと、都心生まれですけど、どこ大学出身ですが、億ションの最上階を買いまして、マウントとられた、ブスじゃ生きていけない、整形して、痩せて、筋肉つけて、見た目がすべて、心はどうでもいいんで、作り笑いでいいから、言いくるめちゃえば、違法でないかぎり、騙されるほうが悪いし、頭わるい?、有能じゃないと、使えねーな、お前のせいだろ、役人のせい、政治が悪い、社会が悪い、そして戦争、奪い合い、殺し合い。
私は誰かの何ものかのせいにするつもりはないけれど、これみんな「競争のせい」ですよね。強い弱い、損だ得だ、優れている劣っている、勝ってる負けてる。競争心をベースにして、これらの弊害が尽きることなく沸き起こっています。
競争というのは、人が取り巻く世界を有限の物質世界だと知覚するときに生じてくるものです。このことについて、これまでの各章で様々な角度から語ってきました。有限性から生じる個々人の分離感が際立つと、競争が世界のシクミに根差した原理かのように感じる。どうでしょう。競争による有用性と弊害を天秤にかけて。それでもあなたは現状のまま、競争を原動力とした社会を選びますか。競争による強制によってデジタル技術を発展させて、より良い便利な社会を、環境を破壊しながらも何とか持続可能であるかのような道を騙しだまししながら進みますか。
私は競争による弊害にウンザリしているので、生活から可能なかぎり競争を排除しています。例えばクルマの運転で、片側二車線以上の道路を我先にと右へ左へ運転していたクルマが、一車線の道に入った途端、観念したように車間距離をあけて走っている光景を目にします。その姿はむしろ、ほっとして安心しているようにも見えます。人は競争環境に置かれると、無意識のまま争い始めるよう条件付けられている。
私はクルマを運転するとき、競争性が生じる片側二車線以上の道路はできるかぎり迂回していきます。初めて行くところでもナビを確認して幹線道路とは別の一車線の道を、遠回りだとしても選んで行きます。驚くほどの時間も変わらず、ゆったりした気持ちでいられるなら十分な余裕をもって出発したほうがいいですね。そんな生活をしていると、目的地へ向かうルート選びは、人生の選択に重なって見えます。誰かが我先にと息を切らせながら目的地に着いたら、しばらくして「お待たせしました」と笑顔で到着する。私は後者の生き方を選んでいきたいです。
ここまで読んでいただいた方には再確認になりますが、競争が原理のように成立するには「自分以外の他者」と「世界が有限」であるという二つの条件が必要になります。本書のタイトルのように「競争原理という人類史最大の嘘」と言い切るには、二つの成立条件のうちどちらか一つの条件を崩すことが求められます。でも相変わらず自分以外の人たちは沢山いるし、焼きたてのパイを買おうと入ったパン屋で前のお客さんが残りの一つを買ってしまったりする。二つの条件は私たちを取り巻く世界の、必須の、切り捨てようのない構成要素のように見えます。
この条件を崩す手段として提案してきたのが、私たちの意識をより深化させて拡大するという方法です。知の道を探求する古今の実践者たちは、世界を知覚する認識範囲が狭いことによって二つの条件がリアルさをもつのだという見解を語っています。
その見解が本当なのかを確かめるために、社会は科学的な再現性による証明や批判的思考をもって検証することを求めます。例えば非科学的な現象である臨死体験を、ジャーナリストの立花隆氏は膨大な取材をもとに複数冊に渡って書籍化しています。そのなかで真摯にインタビューした体験者の内容を批判的思考によって検証しています。ここで一つの事例を取り上げて、そこでなされる客観的で論理的な検証を、さらに考察していきましょう。現代社会にない、新たな視点が生まれるかもしれません。
デトロイト郊外に住む大金持ちの重役夫人だったバーバラ・ハリスさんが、臨死体験後に人生観が変わって終末期の患者をケアする看護師になった話です。脊髄の障害に長い間苦しんでいた彼女は、痛み止めでも消えない激痛のため、手術が成功しなければ死んだほうがましだと考えていました。五時間半に及んだ手術の二日後、急激な血圧低下で意識を失ってしまいます。目を覚ました彼女は体外離脱していたのです。体中に医療器具のチューブをつながれた哀れな自分を見下ろし、可笑しくて笑ってしまいます。意識だけの彼女は空中を漂いながら気分爽快、久しくこんなにいい気分は味わったことがありません。その後に死んだはずの祖母に会い、言葉もないまま抱かれると、祖母のなかにある彼女の記憶が全て伝わってきて、彼女のなかにある祖母の記憶も伝わっていくのが分かります。互いの記憶が溶け合って、心が一つになる経験をします。夜が明けて自分の体に戻っていることに気づくと、看護師に昨日の経験を話します。すると「幻覚を見たのよ」と言われて腕を取られ、鎮静剤を打たれました。
後日にも彼女は体外離脱し、自分の人生の出来事が無数の泡になって現れるという経験をします。人生のすべての瞬間、あらゆる出来事が何万何億という泡になってただよっています。そして泡のひとつに入ると、その出来事を生き直すように再体験しました。子どものころ親から見捨てられ、虐待を受けていた場面。留守がちな母親が家にいるときには決まって叩かれ、気弱な父はみて見ぬふりをする。再体験では現実そのまま、自分の気持ちや匂いも感じられます。そして子どものころには分からなかった、母や父の感情までもすべてが感じ取れます。怒りや苦しみ、悲しみ。そして「ああ、そういうことだったのか」と理解に至る。母も病気が苦しかったり、色々なことがうまくいかなくて情緒不安定になり、むしゃくしゃしていたのだということが分かりました。それに母は自分も親に虐待されて育ったので、子供を叩くことは当たり前のことだったのです。私も犠牲者だったけど、母も犠牲者だったのだと分かります。母は彼女を虐待するつもりではなかった。皆が一杯いっぱいだったのです。彼女自身も、母が家にいないことで自分は見捨てられたのだと思い込み、自分はダメな人間だ、悪い人間だと信じていたが、本当は自分がとても愛情深い、いい人間なのだと分かりました。
無数の泡の出来事を彼女は意識だけの点のような存在で見るのと同時に、泡のなかの昔の自分を、自分の肉体のように感じることができるのです。その感情の動きを自分の感情のように感じることができる、それはとても不思議な体験でした。
「自分の三十二年間の人生のすべてを再体験して、そしてそれによって、私はすっかり人間が変わりました。 自分という人間を見る見方が変わり、他の人を見る見方が変わり、人生というものが、すっかり変わって見えてきたのです。なぜ私がこの世に生を受けたのかがわかり、生きる喜びでいっぱいになりました。死にたかった自分が嘘のようで生きよう! 生きたい! と思いました。そしてこの世に戻ってきたのですが、まだ体の外にいました。サークルベッドの自分の体に戻るのはいやだなと思っているうちに、看護婦さんのいるナースステーションの裏にある洗濯室に入りこんでいました。そこに乾燥機があって、その中で大きな枕がクルクルまわっていました。それは私の枕でした。看護婦さんは、いつも私の腰のところに、体が楽になるように枕をあてがってくれていたのですが、その日私は何十年ぶりにおねしょしてしまって、その枕をぬらしてしまったのです。ところが看護婦は、その枕を洗いもしないで、乾燥機の中にただ放り込んだだけだったのです。 そこにいた二人の看護婦が、私のウワサをしていました。私は近いうちに腰から胸にかけての胴体全体にギプスをはめることになっていたのですが、担当の医者も看護婦も六週間くらいで取れるようになるから心配しないでいいといっていました。ところがそれは嘘で、実際には、六ヵ月間はめていなければならないというのです。その話を聞いてから、私は病室に戻り、もう一度自分の体の中に入りました。やがて、洗濯室にいた二人の看護婦が私の部屋にやってきました。『私、またベッドの外に出たのよ』というと、看護婦は、『そんなことはありませんよ。幻覚を見ただけよ』といいました。そこで私が、『私は知ってるのよ。ギプスは六ヶ月間はめていなきゃならないんでしょう。六週間なんて嘘をいうのはよくないわ』というと、看護婦たちは唖然として、私の顔を見つめました。私はさらに追いうちをかけました。『枕は乾燥機に入れる前にちゃんと洗うべきだったんじゃないの』これを聞いて、看護婦たちはショックを受け、黙りこんでしまいました。そしてすぐに私に鎮静剤を打って眠らせてしまいました」
前にも述べたように、体外離脱というのは、本当に何らかの認識主体が体外に離脱していくか、それとも、本人が離脱したと思い込んでいるだけで、本当は、脳の中で起きる特殊な幻覚現象なのか、もう一つはっきりしない。しかし、本当に体外に出てどこか別の場所に行ってこなければ得られない情報を得て戻ってきたということが証明できれば、それは幻覚でなく現実体験だということができる。 バーバラ・ハリスの例も、泡の体験まではどちらともいえないが、この洗濯室の看護婦の話は、後者の例としてよいように思える。しかし、これも厳密にいうと、疑問点は残る。第一に、この話は、バーバラさんからの伝聞で、他の第三者が確かにこの通りであったと証言しているわけではない。私たちも、できれば事実関係を調べてみたいと思ったが、何しろ十五年も前の話で、看護婦の名前をバーバラさんが覚えていなかったので、とても無理だった。第二に、疑おうと思うと、このケースは別の解釈もあり得るのである。バーバラさんは、看護婦たちに、あなたがたは、洗濯室でこんな話をしていたでしょう、とストレートに斬りこみ、看護婦もそれを認めてびっくりしたわけではない。だから、事実問題として、看護婦たちが洗濯室でそういう話をして、体外離脱をしたバーバラさんがそこでそれを聞いていたのかどうかはもう一つ明らかでない。確かにバーバラさんは、知るはずがない事実を知っていた。しかしそれは、こう解釈することもできる。バーバラさんが、意識を失って昏睡状態にいる病室に二人の看護婦がやってくる。そこで、バーバラさんが枕におねしょしてしまったことを知り、それを取りかえながら、看護婦が会話を交わす。 「あら、しょうがないわね。これ丸洗いしなくちゃならないわね」「丸洗いは面倒だからこのまま乾燥機に放りこんじゃえば」「そうね、誰も見てるわけじゃないから、それでもいいかしら」 そのとき、バーバラさんは完全に意識を喪失していたわけでなく、薄い意識の下で、これをかろうじて聞いて理解し、心の中では怒っていた。ギブスの話もやはりそこでなされた。それが意識下に残り、乾燥機の中で枕がクルクル回っているイメージや、二人の看護婦が会話を交わしているシーンになった。こう解釈すると、洗濯室の場面は、現実に刺激されて見た一種の夢のようなものと考えることができる。この話は、バーバラさんの話を素直に信じれば、体外離脱の証拠と見えるが、疑いだすと、その根拠がぐらついてくるのである。バーバラさんという人は、とても誠実な人で、嘘をついたり、作り話をしたりという人ではないのだが、バーバラさんが自分の体験を百パーセント誠実に述べたとしても、このような解釈が成立するのである。
(中略)
この体験をしたとき、これは何だと思いましたか。看護婦のいうように、幻覚なのだとは思いませんでしたか。
「思いませんでした。第一に、それは実感として、現実なんです。夢とも、幻覚とも、明白にちがうんです。私がその体験をしたときは、ムーディ博士の『かいまみた死後の世界』がまだ出版されていないときで、臨死体験などというものがあるなんて全く知りませんでした。体外離脱体験なんていう言葉も知りませんでした。 しかし、とにかくそれは夢でも幻でもないということは自分の実感としてはっきりしていました。実は私は幻覚はよく見ているんです。苦痛止めでモルヒネを打たれると、いろんな幻覚を見るんです。しかしそれは、臨死体験とは全く異質のものです。私もはじめは、そういう薬による幻覚かもしれないと思ったのです。しかし、よく考えてみると、その体験をしたときは、モルヒネを打たれていないのです。モルヒネ以外の幻覚作用がある薬も打たれていません。そして、内容的なちがいがあるのです。モルヒネの幻覚は、とても恐しい内容なんです。 臨死体験のように心の安らぎを与えるものでは全くありません。人生観を変えるようなパワーは全くありません。モルヒネ幻覚が与えるものは恐怖であり、いやな気分です。そして、時間がたつと、モルヒネ幻覚のほうは記憶がどんどん薄れていって、ほとんど消えてしまいます。いまになってみると、具体的内容をほとんど想い出しません。しかし、臨死体験のほうは、時間がたっても、記憶が生々しいのです。今でも、昨日のことのように、はっきり覚えています」
「臨死体験 ㊤」 P. 280 – 283 より引用 立花隆 著
まずは立花隆氏の真摯で徹底した仕事ぶりに敬意を表し、引用させていただいたことに感謝申し上げます。立花氏は別のところで、著作を一冊完成させるアウトプットに対し、書き上げるためにインプットとして読む書籍数を I/O 比で表すと、100/1 くらいになるだろうと語っていました。その妥協無き姿勢は、多くの日本人がご存じでしょう。
その上で、バーバラ・ハリスさんの体外離脱について「バーバラさんが自分の体験を百パーセント誠実に述べたとしても、このような解釈が成立する」として、昏睡状態のバーバラさんがいる病室にきた看護師たちの話していた内容が意識下に残り、乾燥機に枕がクルクル回っているイメージや、二人の看護婦がギプスについて話しているシーンを脳がつくった幻覚の可能性があると検証しています。
その他に立花氏がいうように「看護婦もそれを認めてびっくりしたわけではない」ことは事実で、バーバラさん自身は看護師の驚いた表情をみて真実をついたのだと解釈していますが、実際にはバーバラさんの幻覚が進行していると看護師が感じて驚き黙りこんでしまったのだとすれば、現実ではない幻覚を見ただけの可能性もあるでしょう。
このように論理的思考を信じる私たち現代人は、客観的で網羅的な批判的思考を駆使した検証によって、前述した懐疑的可能性を見い出しました。
ここからが本題となりますが、いままさにこの文章を読んでいるあなたに質問です。
いまあなたがいる世界は、夢や幻覚ではなく、現実だと確信できますか?
確信できるとしたら、なにを理由にこの世界は現実だと思えるのでしょうか。
例えば私なら、意識の広がりを感じるからと答えます。夜みる夢は色がくぐもっていたりリアルさに欠けたり、という点もあるでしょう。たとえリアルな夢だったとしても、朝に思い返すと見ていた夢の世界の空間に広がりを感じることができません。現実世界であれば、部屋のなかにいたとしても、その壁の向こうに世界の広がりを感じることができます。実際に移動すれば、記憶の通りの空間が広がっている。現実世界では、自分の意識があるレベルの明晰さと覚めた自覚をもって空間の広がりを感じ取れます。
この感覚に同意していただけるのであれば、なぜバーバラさんが「それは実感として、現実なんです。夢とも、幻覚とも、明白にちがうんです」という発言を何の検討もなく切り捨ててしまうのでしょうか。ここが「論理」の不完全さなのです。
論理は明確な証拠に重きをおいて、感じることについては重視しません。感じることは人それぞれ表現もまちまちで、言語化にブレがあるので数量化が難しく軽視されてしまうのでしょう。でも私たちは、自分が現実世界にいると確信を持っています。統合失調のような障がいがなければ、私たちは現実と幻覚を区別できる能力があるといえるのではないでしょうか。
論理的に説明されると、私たちはなぜ信じてしまうのでしょうか。この世界は論理が扱える「明確なもの」はごく一部で、残りの大部分を曖昧模糊とした「感じること」が占めています。さらに論理は、どんな立場からもその正当性を組み立てることができます。だから戦争などで真逆の立場同士が、それぞれの正当性を主張できてしまいます。不完全さがこれほど明確な「論理」を、人類は崇拝しつづけています。
明確なもので組み立てられる論理を「デジタル」とするなら、曖昧模糊とした感じることを「アナログ」に例えることができそうです。
私たちはアナログやデジタルと聞くと、デジタルの方が進んでいると受け取ります。でもその本質は、アナログ的な0と1との間にある連続した無限性を人間の小さな頭では扱いきれないために、その間を切り捨てて「0」と「1」という離散的に扱いやすくしたものがデジタルです。圧倒的な量の情報を切り捨てたデジタルという表現の手法で動く計算機では、量子チップの重ね合わせがいくら洗練されても、無限性という大海の一滴にすらなれないことは方法論的に明らかです。
人間の意識は、その無限性を扱えます。私たちは方法論的に量子コンピュータよりも優れた手段を、生まれながらにして持っています。私たちが思考や感情というレイヤーからそっと離れると、その意識は言葉を介さずに無限性を抽象的に扱うという離れ業をさらりとやってのけます。
競争の成立条件である「自分以外の他者」かつ「世界が有限」のどちらかの条件を無効とする認識に至ることは、ある意味で悟りに至ることと同義でもあるので、到底それは無理だと尻込みされることも当然あるでしょう。昭和のような前の時代までなら、心の混乱状態になど目もくれず、人間社会が提示する価値に明け暮れていてもよかったのかもしれません。しかし今や、私たち人類のお尻には火がついています。
社会が「持続可能性」という言葉を頻繁に多用するようになった時点で、私たちの無意識は人類文明の「持続不可能性」を感じ取っています。子どもたちが見るアニメ作品にさえ、重機が森の木々をなぎ倒していく人間社会の愚かさを、何十年も表現して訴えてきました。人類は理性の道を歩み、その身に取り憑いた野蛮さを剥がしていっている。にもかかわらず、他者に奪われ侵略されるという「恐れ」が反動として戦争を引き起こし、有限性の世界観によって資源や富を独占しようと争いがつづき、有限性の世界観によって資源や富を奪われ何も残っていないと叫ぶものたちが溢れる。私たち人類文明のゆく先は、自滅が必然となります。いまのままでは避けようもないでしょう。
人類文明が延命される可能性のあるシナリオは、星間航行の技術を進めて新たな資源を開拓していく道です。これによって競争の成立条件の一つである「有限性」が緩和されます。でもこれは対処療法であり、根本的な原因を残したままであることは明らかです。そして惑星間航行ですら難しい現状で、文明の自滅が早いか、新たな資源開拓が早いか、対処療法ではいつまでたっても解決しません。
私たち人類文明は、その在り方自体の「転換」を迫られています。願望的な観測を一つひとつ取り除けば、もう猶予がないと受け入れざるを得ない時点に私たちはいます。
文明の転換、私たちが生き残るための在り方自体の転換とは、競争性から抜け出すことだと考えられます。その条件である「自分以外の他者」と「世界の有限性」のどちらかを崩すことが「転換」になり得ます。では、どちらの条件を崩せばいいでしょうか。
例えば怒鳴り散らす狂人が電車内にいたら、私たちは目を合わさないように距離を置こうとします。あるいは物理的に狂人を拘束するかもしれません。そこに愛をこえた慈愛を体現できる人が現れ、いとおしくて可愛い幼子のように狂人を抱きしめたとき。怒鳴り散らす声がやみ、その胸に狂人は崩れ落ちていきます。
私たち普通の人間は、変な人がいれば表面的な行動をみて判断し避けようとします。でも慈愛を体現できるに至った人は、怒鳴り散らす虚勢の姿の向こうに、狂人のたどった人生の不遇や困難、理不尽さの経験を、一瞬にして自らが体験するように感じとるのかもしれません。だから、すべてが赦されるような温もりをもって抱きしめることができるのでしょう。表面に捉われない本質をみる感じ方を「知覚の深さ」とします。
このような知覚の深さの延長線として、さらに知覚を深化させて認識領域を広げていった先人たちは、自分と他者との分離感が無くなる知覚レベルがあることを確認しています。「自分」という認識が肉体の輪郭を超えて広がってゆく。他人だけでなく、他の生き物や机や壁や石ころまで、自分として感じ取ることができる。その対象の生きた感覚を、自らのものとして感じ取ることができる知覚レベル。「他」がなくなり、すべてが「自」となる意識状態があることは世界のどの地域と限らず、まったく別の知の体系の実践者たちが同じように到達している高い知覚レベルであることから、人間意識が到達しうる可能性の範囲内であると考えていいのではないでしょうか。これによって「自分以外の他者」という一つ目の条件を崩すことができます。
でも私たち普通の人間として考えるとき、日常ででくわす嫌な人間とまで一体となる意識状態になりたいとは、そもそも気が進まないかもしれません。それほどの寛容さには至れそうもないし、聖者のようの慈愛の状態は自分から遠く感じるものです。それは生活の隅々にまで競争が浸み込んだ世界のなかで、自分を守り、何かを守って頑張ってきたのだから、当然のやむを得ない感想だろうと思います。
ということで、私は二つ目の条件である「世界の有限性」を崩すほうが取り組みやすいと考えていて、こちらをお勧めしています。
表面的な意識から「競争」を取り除くことは意外と難しいことではありません。あなたが競争社会に疲れていたり、誰かと何かを争う毎日に嫌気がさしていたりしたなら、あなたの内にある競争心に意識を向けて「人生でもう十分に競争を経験できから、競争は卒業するよ。ありがとう」という思いを心で語り、競争心に機能停止してもらいましょう。自分は普段の生活で競争心に煽られるようなことはない、と感想をもたれる方もいらっしゃるでしょう。社会のなかで競争性が緩和された環境に生活している人も多いです。そういう方でも、いくつかの特定分野にだけは強く競争心を感じられるのではないでしょうか。それは自分の強みだと思っていることや得意なこと、やりたくても出来なかった分野などで競争心を感じるものです。それが優越感や嫉妬、劣等感のような姿をまとって表面意識に現れます。
競争のない生活をしたいという確かな思いをしっかりつくって、内にある競争心に意識を向けて宣言する。確固たる意志をもって、一人で心を落ち着けて行うこのシンボリックな行為によって、表面意識から驚くほど競争性は消えてなくなるものです。もしあなたが仕事など環境的に競争性の激しく渦巻く生活を余儀なくされているなら、何とか状況を変える選択はないか検討する必要があるかもしれません。何も方法が浮かばなくても大丈夫です。環境を変えようとする意識をもって行動するとき、その行動がなんの意味をもたなくても、自覚的に変化を起こそうとする確実な一歩になっています。
技術的な説明はこうです。職場などの劣悪な競争環境で沸き起こる負の感情や思考が消費する総エネルギー量を、環境を変えようとする行動や思いに使われる総エネルギー量が陵駕するとき、環境が変化し始めます。
上の図で見ると、負の感情や思考に使われるエネルギー量70%の内の過半にあたる35%を上回る量を、環境を変えようとするエネルギーに回すことができれば、物事が動いていくということになります。
実際には環境を変えようとする総エネルギーが増えていく段階で、下の図のように喜びや楽しんでいる感覚をのせて勢いをつけてあげられれば、加速度的に負の消費エネルギー量の過半をこえていくでしょう。それと同時に、競争環境で沸き起こる負の感情や思考を減らしていこうとする意識があれば、変化への加速度がさらに増します。こうした一日を増やしてゆく、続けてゆく。
表面の意識から競争性が消え失せただけで、心穏やかな生活が訪れることでしょう。そしてエネルギーについて自覚的になっていくはずです。その使い方について自覚的になります。不平不満をいって出来事に巻き込まれる消費エネルギーと、その環境から自由になって状況をひっくり返すエネルギーの仕事量は同じです。どう使いますか。
生活するなかで心の平穏を取り戻すと、いままでの自分がいかに混乱していたか、葛藤の渦中にいたかが明確に分かります。現代人のように混乱の渦中にいると、それが心の混乱と分からず気づかず、正常な人として常識的な生活をしながら、欲望や強い刺激で誤魔化して、何とか正気を保って生きていたのだと分かってきます。
こうして表面的な意識から競争性がなくなり、心の混乱が収まり準備が整ったなら、次にあげる二つのことを意識してみてはいかがでしょうか。
この二つを意識することによって、私たちが認識する世界をさらに押し広げ、無限性を体感する助けになってくれるでしょう。
物質世界を生きるなかで無限性へ通じようとする試みは、挑戦であり、人生という道すがら出会う謎と神秘に気づき、自覚的に生きようとする試みでもあります。普段の生活で私たちは、人生に散りばめられた謎と神秘を無視して生きています。それは脳が言葉によって作り上げた「意味」ある世界の「価値」に注意を向けて生きているからだといえます。しかし人類文明がデジタルな方向性で進んできたことを考えれば、私たちの「意味ある世界」とは離散的に情報を切り捨てた扱いやすい事柄の集まりのことです。
私たちが「無意味」として素通りしていたものへ、自覚的に注意を向ける感性を育てていく。それは言語の表現可能性の範囲では記述しようもない、無限性に通ずる知覚の深化をすすめていく助けになります。
平日の忙しい朝に、気持ちいいと感じた朝の光を、立ち止まって全身で感じてみます。それが少しの時間だとしても、立ち止まらないまま無意識にやっていたはずの日々のルーティンにくさびを打つことになります。頬に感じた風を立ち止まって感じてみる、普段は目にもくれない道ばたの石ころを立ち止まって見てみる。
それは物事の変化に対して自動的に反応するだけの無意識の生活に、自覚した意識を潜り込ませるという狙いの戦略です。これによって意識的に注意力を向けることのできる自由度が生まれ、無意識のまま外部や内部の刺激に反応するだけの自分から、自覚したコントロールという自分自身に対する支配力を取り戻せます。いつもは見過ごしていた人生の謎や神秘に、立ち止まって注意を向けることのできる自覚の力が育ちます。
その力は最後に、もっとも無意味な、なにも無いはずの目の前の空間に向かうかもしれません。私たちの小さな「意味ある世界」は、大きな「無意味な何か」を受け入れざるを得なくなるでしょう。
私たちの身の回りには次々と出来事が起こり、様々なトピックに溢れています。身に降りかかる損得の話や政治や争い、仕事や人間関係の様々な出来事。そのどれかに注意を向けると巻き込まれて、無意識に反応するだけの生き物になってしまいます。
どんな出来事も、渦巻としての人を巻き込むエネルギー構造をもっています。ひとたび注意を向ければ、渦巻く変化に内部の価値判断が刺激され、恐れや怒り、興奮や不安、正しい間違っているなど、沸き起こる感情によって巻き込まれていきます。その中で自分は自覚的に判断して行動していると思っても、構造の全体を俯瞰すれば、それは外部刺激に反応するだけの無意識の生き物でしかありません。何かのニュースをみて感情や考えが沸き起こるとき、身近な人間関係の出来事で逃れようのない強力な没入感によって巻き込まれていることさえ忘れてしまうとき、「いま自分は渦巻のなかにいるんだ」と覚めた意識を差し込むことができれば、自覚したコントロールを手にできます。
無限性へと開かれる意識の可能性を、なぜ人類は不遜に無視してきたのでしょうか。
私が感じるところによれば、私たち自身の内なる「理性」が、その知を封印してきたのではないかと思えます。人類は理性の道を歩んでいます。理性は本書で語ってきた通り、本来の機能をこえて支配的な地位を占めています。例えば、人の意識に変容をもたらす「力の植物」を人類文明が禁止してきた理由は、それらを利用してしまえば多かれ少なかれ、人々が「意識のもつ無限の可能性」に気づいてしまうからではないかと考えられます。人々が意識の可能性に目覚めて、理性をその支配的地位から引きずり下ろし、言葉を介さない直接行動の「意志」へと行動原理の中心が移されてしまうのではないかという、理性本体からくる「恐れ」の衝動なのではないかと思うことがあります。
理性は、言葉を介した間接的な行動様式なので、常に数歩も遅れていて、自明の知からも遠ざかるので、その欠点を隠そうと結果的に言葉による様々な制限を設けて私たちを「迷いの世界」に閉じ込め、理性の支配構造を守ろうとしているように見えます。
私たちが意識を拡大してゆく実践のなかで、自分の理性の重荷を下してやる必要を感じる段階になったなら、感謝の気持ちを込めて「お疲れさま」と理性に言いたいものです。理性は本来の機能をこえて、分不相応な支配的地位としての役割をこなしてきたのです。理性本来の機能とは、この物質世界を知覚するデバイスのような役割で、他の誰かと「同じ」ような「客観的で不動な世界」を記述するためのものです。
それを実現するために理性は、人が生まれたあと物質世界を記述するための「一覧表」を作ります。この一覧表とは、生後その子に「世界はこうだよ」と周りの大人が描写する表現を一つひとつ項目にして、その項目にそって知覚する世界の描写を調整していき、その子が周りの大人の描写する世界と遜色なく整合性のとれた世界を知覚できるようになれば一覧表の完成となります。「物心がつく」とは、一覧表が形作られ始めた段階を指しています。そして一覧表をもとに理性は、他人と共有しうる世界を記述できるようになります。理性による一覧表づくりは、子供のころに終わるといえます。
しかし理性の道を歩む人類文明は、完成したはずの一覧表の項目を、病的なまでに増やしていくという活動を続けてきました。例えば、様々な学問のあらゆる分野のあらゆる細部までをも分類し、名前をつけて一覧表の項目を増やしていきます。「世界を描写する」という一覧表の機能は完成しているのにもかかわらずです。際限なく分類し、際限なく法規をつくり、際限なく他人の一覧表を学ぼうとします。その衝動が目指す先は、世界を知り、宇宙の真理を知ろうとする本能によるものかもしれませんが、皮肉にも世界の真理からは離れていく活動を続けてきたように映るのです。
いま私たちが置かれる環境は、なにが本当で、何が嘘なのか分からないほど、情報に溢れた生活を送っています。様々な言説が飛び交う現代において、しっかり心に刻みたい考えがあります。
それは「どんな言説も、その段階にある人には必要なもの」ということです。
人の精神的な進化段階というものは、無限の階段のようなもので、段階を区切ることもできないようなグラデーション状になっています。「間違っている」とか「くだらない」と感じた言説でも、発言者と近い段階にある人にとっては必要な言葉なのだと理解することができます。また自分には意味が分からない言説でも、すらすらと共感をもって理解できる人たちもいることでしょう。「どんな言説も、その段階にある人には必要なもの」を頭におけば、誰かの発言によって起こる批判的な感情を静めることができます。
例えば「あなたは選ばれた人、あなたは本当は凄い、自分の偉大さに気づいて」という言説が世の中に溢れています。このメッセージは「他者からの承認が足らず、自信をもてない、自分が好きになれない」という現代人の多さに対応する言説なのだろうと思います。この言説が必要な人は、自分という存在を肯定してくれる言葉を沢山浴びて、その言葉を信じることによって、自らのなかに確かな「自信」を育むことができるのかもしれません。現状では多くの人にとって必要な言説であるでしょう。
ここで注意しなければならないのは、違う段階にある人には、その段階に合った言説が必要になるということです。必要なメッセージ自体の意味が逆転することもよくあることです。
つらい事も乗り越えて、悲しいことも理不尽なことも乗り越えて、静かな自信が自分の内に宿るようになると、「自分は取るに足らない存在」なんだという自然な気づきを得る段階があります。これは古今の実践者が至る心境であり、田舎のおばあちゃんやおじいちゃんが、けらけら笑いながら泥のついた手で顔を拭うような、苦労を気にも留めずに生きていける段階に至れば、自然と身につく在り方でもあります。
何もできない取り柄のないころ人は「自分はもっと重要に扱われるべき存在」と考え、苦労や経験を重ねて何事もさらりとやり過ごす能力を獲得したあと人は「自分は取るに足らない存在」だという実感をもつ。
人生とは不思議なものです。それは一歩引いてみれば、自分を重要に考え過ぎているが故に世界が見えず、世界の神秘と謎の計り知れない奥深さが見えてくるようになると「自分は取るに足らない存在」だという思いに至ることができる。そして世界の真理はパラドックスとして表れるので、自分を重要に考えているときには「他人とばかり比べて自信が無くなり」、自分は取るに足らない存在なのだと知ると「自信と活力、冒険心が湧いてくる」ようになる。
これはエネルギーの観点からいえば、無節操なエネルギー消費の様式から抜け出して、エネルギーの適切な使い方を「知った」ということができます。
全てのものはエネルギーに還元できるので、人を定量のエネルギーをもった生命と考えたとき、そのエネルギーを多く消費するのは負の感情を燃え立たせた場合です。「バカにされた、侮辱された、見下された」といって怒りや妬みなどの感情をかき立てるほどエネルギーは大量に消費され、終いには使い果たされてしまいます。或いは、他人の否定的な言葉を浴び続けるなかで、いつしか屈して真に受け、否定性を自分に向けてしまうような場合。その状態が自信をもてない無気力さだったり、感情の起伏のないまま退屈なルーティンとしての日々を繰り返す人たちだったりします。
この状態を、現代社会では「自己を重要に考えられない」ことが原因で自信をもてない人が量産されているのだと考えていますが、本当は「自己を重要に考え過ぎている」ことが原因だといえます。否定性の被害者は別として加えませんが、現代人の多くの人々が、自己を重要に捉えすぎている傾向にあります。
それは「自己を重要に考えすぎる」あまり常に他者の優位性に注意が向いてしまい、負の感情を燃え立たせてエネルギーを大量に消費し、その感情を外に向け、または外に向けられずに自分を攻撃してしまう。これではエネルギー的に精根尽きてしまうし、症状を自覚していなくても、多くの現代人がこの状態にあるのではないかと思います。
一方で、自然の神秘や深遠さに注意が向かうようになると人は「自分は取るに足らない存在」だという思いに至って、無駄な感情のエネルギー消費構造から抜け出し、エネルギーの適切な使い方に合った「在り方に落ち着く」ということになるのでしょう。
私たちは、自然と次のような人を「本物の人」だと感じるのではないでしょうか。
自分のことを重要に考えず、何を言われても気に留めることなく、朗らかで、不安にとらわれず、他を無理強いすることなく、善も悪も包み込んで、清々しくて自由で、期待することもなく、恐れることもなく、汚れる仕事は自分から、危険な場面では超然として、心の道をただ歩んでいる人。
いま挙げた例を逆にすると、次のようになります。
自分のことが何より重要で、尊重されないと不愉快で、気難しく、世界の不安な出来事にとらわれて、他に押し付け、自分は正義で他は悪だといい、欲望に縛られ、期待して叶わないと苛立ち、恐れからは逃げ、汚れる仕事は避け、不安を先回りして逃げる用意をし、自ら歩む偽りの道に無自覚な人。
あなたは、どちらに向かって生きていきたいでしょうか。
最後に、田舎で農業をする初老の男性の物語りを考えてみましょう。
男は代々受け継いできた山あいの段々畑を、これまでと同じようにその年も耕していました。新たな種を蒔き、土地の世話をしながら、秋には樹が実をつけます。「今年も多くの実をつけてくれたな」という感謝の思いが身を染める夕暮れ、自分の人生も多くのことがあったなという追想にかられます。若い頃には町に出て、工事現場やトラックにのって稼いだりもした。子どもたちは無事に育って孫もできた、畑はいまでも大地の豊かさを実らせてくれる。世界では戦争や火山の噴火、大飢饉が度々起こったなか何とか生き延びてきた。男は夕暮れの輝きに身を突かれ、ふと思います。「でも世界で起こった大事件や大災害は、はたして自分の世界のものだったのか」と。自分の人生に、自分が生きた時代に起こったと思い込んでいた世界の出来事は、本当に自分の世界のものと言えるのだろうか。どんな時も、山々や目のまえの畑は朝日に輝き、風に揺られていたのだという思いが頭を過ぎりました。もしテレビのニュースで見聞きした嫌な事件や災害を知らなかったなら、ずっと平穏で豊かな人生だったのではないか。大嵐がきて収穫期の果実がほとんど落ちてしまった年もあった、土砂が流れ込んだ年は村人総出で片付けたもんだ。それもみんな自分の世界だ。大変だったけれども、それを乗り越えてきたという想いが、なにか眩しいような人生の思い出になっている。
男はそれからというもの、テレビをつけることが無くなりました。だからといって何が変わるわけでもありませんが、飯がまえよりも旨く感じるようになったような気がしています。米の一粒ひと粒、みそ汁をすすったときの深い味わい。気のせいかもしれんが。心も穏やかに、山々の眺めと、鳥のさえずりを聞いているのが好きでした。
心の平穏さが男の自然な特徴の一部になると、物に対する扱い方が変わってきました。食器を洗うときのガチャガチャした音がなくなり、農機具の扱い方も以前より優しいものになってきました。あるとき男は、ふと気づきます。以前は心のなかで過去の出来事の言い訳を繰り返したり、気がつくと自己弁護する心の議論をしていたりしたものだが。最近では気がつくと心のおしゃべりもないまま、何時間も作業に没頭している。心の葛藤が消えてゆくにつれて、物に優しい扱いができるようになっていました。
男は食事の用意をするときに、物音をたてず食器を置くことが自然な男の物腰となり、優しく戸を閉め、土間の履物をそろえます。そして心も穏やかに、山々の眺めと、鳥のさえずりを聞いている午前のことでした。
蛇口から落ちた一滴の雫が、台所に溜めてあった桶の水に落ちたのでしょう。水面をたたいた雫の一滴の音が、こだまのように男のなかで反響したのです。音の大きさに圧倒されるようでありながら、遠ざかっていくようでもあります。雫の落ちた音に、その深遠な響きに導かれ、男は永遠へと溶け入りました。
反響が完全に遠ざかると、いつものように優しい鳥のさえずりが聞こえていました。男の姿が消えた縁側に、吹き抜ける柔らかな風を残して。
現代社会には、情報が溢れています。そして人は、取り入れた情報の総体によって世界観を形成しています。自分の身の回りの世界をこえたニュースの情報や統計データを概念化したのはいいけれど、出来上がった世界認識のモデルに自分自身が拘束されてしまう。そして「世界ではこれが常識、その考えは甘い」と行動が事前に規制されてしまいます。その帰結として「無理だ、足りない、限界だ」と、私たち人類文明の決まり文句が説得力をもって飛び交うのを目の当たりにするのです。
しかしその決まり文句がリアルさをもつのは、概念化したモデルを共有する閉じた頭の人同士であって、共有していたモデルを自分の世界から捨ててしまえば、閉じた有限性の世界からもやがて解放され、目のまえに広がる自分の世界に「無限性」を見つける体験が訪れることさえあるのです。
目の前の自分の世界ではない情報をもとに条件や限界を設定してモデルをつくり、他人のモデルよりも優れているだろうといって競わせる、「閉じた頭」の者同士で争うときの見飽きた構造ですが、そのやり方では有限性と限界しか発見できず、より良い合意点を見いだす可能性は閉ざされ、自分一人が何をやったところで世界は何も変わらないという感想しか生まれない、それが現在の「迷いの世界」です。
目の前の世界をこえた情報をも広大な世界だと概念化すると、有限性しか見えなくなる。目の前の限られた世界が全てだと受け入れると、そこに無限性を見いだすことがある。真理のパラドックスは、いつでも私たちの前に立ちはだかっています。
現代の多くの人の精神は、闘争のような葛藤のざわめく混乱状態だろうと観察しています。自らが他人に感じた批判の考えや、誰かが誰かに対して言う批判の言葉が記憶として蓄積し、自分が逆の立場に立ったとき、批判の記憶が心のなかで「反射」して自らを攻撃することがあります。そうすると反射する批判に対して、人は自分の立場を弁護する言い訳のおしゃべりを心のなかで展開していきます。競争性の強い環境で生きている人は特にでしょうが、やむを得ない処世術の副産物といえるのかもしれません。
このような内的批判と弁解の連鎖から解かれるには、自らの内に意識を向けて、内的批判と弁解のおしゃべりに気づいたら、「よくいままで頑張ってきたね、もういいよ、お疲れさま」と深い実感とともに心へ語りかけましょう。
精神の混乱状態が収まり、心の葛藤が消えると、心のおしゃべりを止ることができるようになります。内的対話を自由に止められるようになった自分に気づくのではないでしょうか。例えば瞑想指導者でさえ「心の思考を止めることは不可能なので」と生徒に語るほど難しいことと考えられていますが、思考の連鎖を止めることが出来ないのは自らの精神が混乱状態にあるからだと分かれば、まずは葛藤のざわめく精神の混乱を収めてやることが第一歩だと理解できます。
心の平穏が取り戻されると、睡眠時にみる夢のストーリーが支離滅裂なものから、理路整然とした夢に変わります。逆に考えれば、支離滅裂な夢を見ているとすれば、それは精神の混乱状態を表しているといえます。
そして日常の生活の中でいつでも、心の沈黙状態に入ることができるようになります。それと同期するように心の中が整理されて、日常の世界に「そっと優しく触れる」という真の謙虚さが備わってくるようにもなります。
この「新しい優しさ」が、競争心の問題を克服した人の、はっきりとした特徴になるだろうと考えています。