自然界は弱肉強食か
「競争」を世界の根本的な原理だと捉える材料の一つとして、自然界は弱肉強食の競争原理でまわっている、という考えがあります。私は、無検討のまま当然と受け入れられていることについて疑問を投げかけたいと思います。
自然界は本当に「弱肉強食」ですか?
こんなストーリーを考えてみましょう。
派遣社員として働く女性がいました。劣悪な労働環境の職場を転々とする毎日を、彼女は帰宅して部屋の窓から見える自然の風景で癒していました。大きな木が点在し、様々な低木や草花が風に揺られています。地方で働く四十代の女一人暮らし、隣の部屋から聞こえてくる若夫婦の怒鳴り合いも、窓からの景色を見ているときには和らぎます。
彼女の唯一お気に入りの風景でした。ある日、勤務先の上司が持ち帰っても終わらないほどの仕事を言いつけてきました。競合他社とのせめぎ合いで業績が悪化していた社内は殺伐としていて、彼女は正社員のストレスの捌け口です。実家の母が体調を崩して病院への送迎や付き添いなどと重なり、物理的な時間のやり繰りも限界でした。
疲れ果てて帰宅した初夏の夕暮れ、彼女は二階の部屋へと向かわずに持ち帰りの仕事も忘れて、お気に入りの風景へと歩いていきます。窓から見下ろしていた景色と違い、間近で見る草木の生命力に圧倒されました。夕暮れの緩やかな風と、立ち込める草いきれに包まれます。自然の癒しを全身で感じようと数歩まえに歩み出たとき、それは彼女の視線を捉えました。大きく葉を伸ばして育った草の横に、日を浴びることなく成長の止まった草があるのです。彼女は震えました。競争社会に疲れ、癒しを求めた自然の景色は、そこもまた生死をかけた競争の場だったのです。脱力して膝から崩れ、彼女は押し殺すようにすすり泣きました。これほどの絶望を前にしてもなお、周りが気になり大声で泣けない自分に、救いのない人生に、ただすすり泣きました。
いかがでしたか。
自然界は動物による食物連鎖のような弱肉強食だけでなく、植物同士も競争関係にあるように見えます。ただここで疑問を提起してみましょう。私たち人類は少なくとも数千年の間、競争は自然の摂理だと考えてきました。その根底に刷り込まれた「思い込み」は、世界を解釈する上での色メガネになっていないでしょうか。
四十代女性の、続きの話をご覧ください。
打ちのめされた敗北の人生は、成すがままに五年が過ぎました。母は持病が回復することなく、他界しました。末期の痛みから漏れる呻き声は、成人してもなお彼女に向けられた執拗な𠮟責と重なります。悲しみの代わりに安堵が、母の置き土産となりました。仕事の過酷さから母の死も忘れかけた数か月後、町に嵐がやってきました。仕事を終えた深夜に、打ち付ける雨のなか部屋へと駆け込みます。その夜は濡れた髪をぬぐったことさえ記憶にないまま、その場で眠り込んでしまいました。暑さで目を覚ますと、翌日の午後でした。混乱した頭で休日であることを思い出して落ち着くと、これほど長い時間を眠ることができたのは何十年ぶりだろうという思いに耽ります。いつもは不安から様々な考えが浮かんでは目が覚めてしまうのに、と立ち上がって窓を開けると、そとは嵐の過ぎ去った青空が広がり、葉にまだ残る水滴が日の光を反射しています。彼女は誘われるように部屋をでました。ぬかるんだ土を気にすることなく進むと、辺りは嵐の激しさを表すように草が根元から倒されています。木々の枝も所どころ折れているなか、彼女は足元に目を留めました。なぎ倒された大きな草の間から、成長の止まっていた小さな草が光を浴びているのです。それは新芽の色とも違い、年月の経った深みのある緑でありながら、背丈の小さな草でした。初めての祝福に照れるような、つつましさと、それでいて生きてゆく自信を帯び始めているように輝いています。すっくと立つ姿に、彼女は自然の深遠さを感じました。たったいま分かった、言葉にできないこの感覚を、忘れるものかと目を閉じます。そして息を大きく吸って、心に刻み込んでみる。すると体の奥から笑いが込み上げてきて、いつのまにかけらけらと笑っていました。そして周りを気にすることなく、喜びのあまり大きな声を張り上げたのでした。
自然界の動植物が捕食しあっていても、個々の動植物は優勝劣敗の弱肉強食原理で競争関係にあるという何らかの認識すらないだろうと、私は想像することがあります。捕食の場面で追ったり逃げたりするのは、自らの筋力やスピード、牙や爪の作りなど、固体の条件に応じたそれぞれの反応をしているだけだともいえます。
画像のトラは、射す陽に郷愁を観ているような表情で追い、ゆるやかな午後に咲く花を愛でているような表情でイノシシは逃げます。そして捕食した動物は必要な分だけを食べ、残された体は他の動物や昆虫、大地が余すことなく栄養にかえていきます。捕食側は必要以上に獲物を殺してため込むこともなく、もし獲物が獲れない日が続けば、自らの死を運命として受け入れる自然な覚悟が備わっているように感じます。なぜなら獲物を殺して食べることは、いつか自らの死が訪れたときに、自らも誰かの、何ものかの「贈り物」となることを知っているからではないでしょうか。
自然は局所的な部分や時点を捉えれば「競争」のように映る事象でも、全体としては「調和」しているのだという気づきを得ることがあります。しかし自然の調和は普段、私たち人間の小さな頭では把握しきれないほどの広がりをもっていて、どうしても目のまえの局所に注意が向いてしまいます。すると有限性がリアルに浮き立って、個々が分離した感覚を際立たせ、勝った負けたと始まることになります。
人間も自然の一部であり、宇宙の一部であることを考えれば、人工という言葉も便宜上のものに過ぎず、高層ビル群も人間の巣でしかありません。
もしいまこの時代に、私たちが取り巻く世界の無限性に気づいて、確信へと変えていけるなら、自然は弱肉強食ではなく、違った原理で回っているのだと、真の姿が見えてくるのかもしれません。