「競争原理」という人類史最大の嘘

  「結果がすべて」の嘘
 
 企業経営者や現場の上司、スポーツ選手や親が子供に向かってまで「結果がすべて」だなどと言います。「競争」が社会通念として採用されている現代においてはやむを得ない感覚なのかもしれませんが、「開けた頭」の人たちは「期待せずに行動する」ほうがいいと言うでしょう。では、どちらに優位性があるのでしょうか。精神論や理想論ではなく、実際の効果としてどちらが有効でしょう。
 例えば会社の上司が「成績を上げろ」ということで部下の一人が猛烈に頑張って成績を上げたところ、本社での評価基準が改定されて、頑張った部下は一位になれませんでした。また、最高の結果をだすと期待されたスポーツ選手の競技が、悪天候で不成立となったりします。さらに、ビジネスで大成功を収め巨万の富を築いた男が「自分こそ世界一の勝者だ」と人生に酔いしれながら死んでみたら、人生には魂を磨くという本当のルールがあったのだと知り、他人を裏切り、傷つけ、見下してきた生前の生き様がそのまま反映した世界へ落されたりするかもしれません。
一見、とりとめのない例えのようですがこれらに共通する「結果がすべて」という達観は、人間社会の内側で通用するだけの価値観なのだと分かります。世界の根本的な法則として「結果がすべて」に優位性があれば、人間社会の価値観や天候などの様々な物理的な条件には左右されないはずです。法則として優位性がある場合、それらには影響を受けることがないのです。
 
 ここまで確認したところで「結果がすべて」と使っている人たちも、これが世界の根本的な法則だとは思っていない人がほとんどだろうと思います。人間社会が「結果がすべて」を評価や価値として重視しているのだから仕方ないのだと考えていることでしょう。確かにやむを得ない現実に即した対応なのかもしれませんが、人間社会の評価や価値を簡単に吹き飛ばしてしまう「上位法則の力」を無視することはできません。
人間社会の価値観は、内側から見ると強固な法則のように映りますが、それに影響を及ぼす上位の自然法則がレイヤー状に幾重にも覆っています。その一番上位にある法則を「宇宙の真理」と定義するとき、「開けた頭」の人たちはその真理にそった様式として「期待せずに行動する」というわけです。一方で「結果がすべて」の場合は「結果を期待しまくる興奮で行動する」ので、双方は対極にあります。
 
「上位の法則は下位の法則の影響を受けない」という規則から探っていくと、物質世界での自然現象や出来事は私たちの固体に影響を及ぼすので、私たち自身の肉体は自然現象よりも下位のレイヤー法則に属していることが分かります。雨が降れば体が濡れるし、ショッキングな出来事は私たちの気持ちに影響を与えます。私たちの肉体に当たれば雨粒の方向を変えることにはなりますが、降雨現象自体に影響を与えることができないのです。これは当たり前の現状認識ですね。
そこで自分の内面をもっと厳密に探っていくと、物質世界の出来事や自然現象が影響を及ぼすのは私たちの肉体や感情、思考であって、意識自体には影響が及ばないことが「自明の知」として分かるようになります。意識は漠として、そこに在る感じです。そういった認識がより研ぎ澄まされていくと、人間の「意識」は「物質世界」の上位に位置するのだと確信します。こういった「自明の知」はあなたの人生で確かめる以外に方法はありませんが、この探求により、上位の法則レイヤーに属する「意識」は下位の「物質世界」に影響を与えるのだという理解に至るわけです。そして物質世界の下位にある私たちの感情や思考は、私たちが後天的に採用した考え方や価値観、判断基準によって起こった物事を「評価」し、その評価にそって感情や思考が揺れ動くのだという反応の順路も分かってきます。
 
これを踏まえて「結果がすべて」を考えると、それは後天的に採用した考え方や価値観、判断基準などと同じ階層のものと分かります。この階層にあるものを自らの内観を通して明瞭化してゆくと、それらは「自分とはこんな人」を規定するもので、同時に「自分」の限界をも規定しています。自分はここまでは出来るだろうけど、それ以上は無理、といった感じです。この階層にある基準の多くは、自分への「制限」と言い換えることもできます。要すると「結果がすべて」という考えをあなたが採用した時点で、あなたが想定する「結果」以上の可能性を放棄しているということになります。
私たちの誰もがそれぞれの「天才」を発揮できるのに、あえてそうならないようリミッターを設定しているようなものです。私たち人類の文明は、不可解ですね。誰もが「凡人」となるよう周りの大人たちがあらゆる「制限」を子供に教え込みながら、できあがった凡人たちの群れが「競争だ、競争だ」といって、どんぐりの背くらべをしている。なんとも不可解な文明です。
 
この重要性に気づいた人たちは、自分が後天的に採用した考え方や価値観、判断基準のなかから、自らの可能性を閉じてしまうような「項目」を点検していきます。そういった制限となる項目は「裏方」で感情や思考をかき立て動作する性質をもっていて、ひとたび意識の焦点が向けられると萎縮します。不必要な「項目」を見つけたらその性質を利用して、意識の注意を項目に向けて「お疲れさま、ありがとう」とでも声をかけ、項目の機能を止めてもらいましょう。
この時点の認識に至った人にとって不必要になったとしても、その時点まで「項目」の機能は必要だったと考えられます。「項目」が嫌な感情や考えをかき立ててきてくれたお陰で、へとへとになりウンザリしながらも、あなたが新しい視点に立てたという経緯をみれば、不必要な「項目」の一つひとつは現在の「気づき」へ導くための必要な項目だったのだと捉えることができます。ですから感謝の気持ちを伝えたいですね。
そういう実践を生活に取り入れていくと、人は可能性が限りなく開かれた本来の自然な状態に近づいていけます。私自身は道半ばの実践者ですが、生活から競争を遠ざけ、闘争状態の精神を沈め、行きつ戻りつ、内観しながら心のなかの掃除をすすめていくと、あることに気づきます。「期待」も制限のひとつだという自明の知を得ることになります。「期待」という自分の「想定」が制限となり、想像をこえて展開する可能性をもった人生のダイナミズムを、こぢんまりとした「期待」という袋に押し込んでしまうのだと知ることになるのです。
 
改めて構造を確認すると、私たちが後天的に採用した制限となる各項目が、物質世界の上位法則に位置する意識の焦点を固定して、物事本来の展開を制限している、ということになります。
ここで矛盾が生じているように感じられるかもしれません。物質世界よりも下位レイヤーである後天的に採用した項目が、物質世界よりも上位レイヤーである意識の「焦点を固定する」という、下位法則が上位法則に影響を与えている事態であるなら、法則の規則に反していることになります。
これは体験でしか理解し得ないことなので深く触れませんが、人の「意識」よりもさらに上位法則である「意志」が肉体の中心に備わっていて、もっとも下位法則である価値判断基準で「選択」したものが良い悪い、損か得か、有効無効など何も関係なく、「自由な意志」として「選択」を試みるので、意識よりも上位法則の意志による「選択」が意識の「焦点を固定する」という不思議なループが起こります。これにより現象として、下位の階層である考え方や価値観、判断基準などの項目が、上位レイヤーの意識に「焦点を固定する」という影響を及ぼしているようなことが起こる。人間の構造自体が、本当に不思議なものだと思います。
改めて、「後天的に採用した制限となる各項目が、物質世界の上位法則に位置する意識の焦点を固定して、物事の展開を制限している」という知見から「結果を期待せずに行動する」ことが、想定していた「成功の結果」をはるかに上回るダイナミズムで豊かさを導いてくれる可能性を開くことになります。
私たちの意識が物質世界に影響するという「閉じた頭」では理解しようもない認識が、新しい時代には必要になると私は考えています。

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