「競争原理」という人類史最大の嘘

 

  葛藤の正体

 

 現代人の心のなかを覗いたなら、様々な葛藤が次からつぎから起こっているのではないでしょうか。このような精神の状態では、安らぎや幸福感を得るのは難しいでしょう。そのため欲望や競争心、攻撃性をかき立て、強い刺激によって紛らわせるという日常を繰り返しています。より良い世界へと生まれたテクノロジーが、破壊の方向へ使われてしまう現実は、私たちの心を表しているのかもしれません。

 

 では本当に私たちの心が、世界に現れるのかを考えてみましょう。

 例えば、街を歩くファッションに関心のある人たち。彼らは自分らしさや好みに合うアイテムを選んで着こなしています。自己表現という言葉の通り、時代のはやりすたりを気にしながら、自らの内なる何かを表しています。

 逆に、まるでファッションに関心のない人たちはどうでしょう。彼らは地味な服や、あり合わせの物を引っかけて出かけます。そういう人たちを注意してみていると、あることに気づいたりします。とても、その人らしく感じないでしょうか。出かけに手に取る服も、どこか気に入っていたり、着た感じがしっくりくるものだったりするのでしょう。服を買う機会があれば、何でも安いものでいいと思いながら、その中で気に入った色を選んだり、同じ価格帯のなかで自分にしっくりくるものを選んでいるのかもしれません。そうやって人は知らず知らずのうちに、自分自身を表してしまうものです。この場合の自己表現とは外に出かけるための服装ですから、自分が社会に対して使っている対外的な自己イメージ(キャラ)が表されます。

 

 同じように家や自分の部屋で表現されるのは、より内側の自己イメージが表れています。誰かの部屋が、他人には見せない趣味趣向や自分らしさで彩られるのは、誰でも感じることでしょう。

 さらにゴミ屋敷といわれるような足の踏み場もない部屋ですら、その人の心を表しているわけです。幼少期から周りの大人に否定されつづけて自己の無価値観に陥っているのかもしれないし、現状の自分を受け入れられない怒りや絶望でエネルギーを使い果たしてしまっているのかもしれない。どんな経緯だとしても、部屋の主の心は、足の踏み場もないゴミだらけのような状態なのです。だからこそゴミ屋敷のような環境がその人にとっては落ち着く一方で、外に出かけるときには対外的な自己イメージに合致した小奇麗な服装に着替えたりするのかもしれません。彼らに対して部屋を掃除するよう言うのは逆効果で、自信を培えるような言葉をかけたり、混乱して収集のつかなくなった心の整理を手助けできるなら、時間をおいて自然と部屋は片付いていきます。

 

 なりたい自分と現状の自分の乖離が大きいほど、いまの自分に不満が湧きます。そこに周囲の否定的な言葉の蓄積があれば、自己否定から、自己無価値観へとバランスを失ってしまいます。「なにをしたらいいか分からない」という現代人に多い症状は、なりたい自分と現状の自分の乖離による葛藤、その葛藤からくる「焦り」が原因です。

 なりたい自分と重なるような成功者をみて、葛藤が刺激される。いまの自分ではダメだと思う。焦りに突き動かされて、なにかしなければと考える。しかし焦りに突き動かされているだけなので、何もない。なにもないところに何かしなければと考えるのだから「なにをしたらいいか分からない」。私たちは周期的に、この繰り返しをしています。

 さらに「なりたい自分と重なる成功者をみて葛藤が刺激される」という型の中身が変化して、得している人をみて葛藤が刺激される、うまくいっている人をみて葛藤が刺激される、キレイな人をみて葛藤が刺激される、楽しそうな人をみて葛藤が刺激される、裕福な人をみて葛藤が刺激される、幸せな人をみて葛藤が刺激される、というふうに次からつぎへと葛藤の種が生まれています。

 他人の失礼な言い方や態度をみて、自分ならあんな言動はしないと葛藤が起こる。なんで周りの人のことを考えられないのだろう、自分はこんなに周りの人のことを考えて行動しているのにと葛藤が起こる。葛藤の型は、様々に入れ替え可能で絶えず派生していくので、私たちは心やすまることなく疲弊してしまいます。

 

 対外的に使っているキャラと、理想の自分が分離した状態、これが葛藤を生む正体です。分離をゆるく捉えられていれば普通の人として生活できますが、分離を常に意識して深刻に捉えたり、周囲の自分に対する否定的な言葉を真に受けたりすれば、本当になりたい自分になれない「許せない自分」が醸成され、事あるごとに入れ替え可能な葛藤の型が刺激されます。

 仕事での間違いや大損をする選択で「なんであんな判断をしたんだろう」と正解を選べなかった自分との葛藤が起こる。人生の分岐点で違う道を選んでいればという後悔、いまの自分と違う道を選んだはずの輝かしい自分との葛藤。それを達成している人への嫉妬。ちがう仕事を選んでいれば、あのとき資格を取っておけば、なんであの大学に進まなかったのか、さっきの店のほうが安かった、先週のうちに株を売っておけば。過去の選択の後悔が起こるたびに、いまの自分と理想の自分との分離が刺激される、この刺激を葛藤と感じることになります。

 過去への後悔とは逆に、未来への諦めも葛藤となります。現状のダメな自分を変えて、なりたい自分になんてなれやしない。どうせ無理だ、できるわけない。そういった感情の蓄積されたエネルギーは、他者への嫉妬や社会への怒りとして表現されます。また本人が優しい性格だったり大人しいタイプだったりするなら、自分自身へ攻撃性が向かうかもしれません。私たちは、自分自身との和解が必要のようです。

 

 葛藤を無くして、心を静める。これは誰でも達成できることであって、むしろ自然な状態に戻る、生まれた頃の赤子の状態に近づくことなのかもしれません。私たちは生まれたとき快・不快の本能的感覚はあっても、葛藤を身につけて生まれてくることはないでしょう。葛藤は後天的に身につけるものであるし、私たちにとって快くない負の感情を生みだす判断基準や価値観も育ってゆくなかで意識的・無意識的に自分自身で採用しています。その後天的に身につけたものによって生み出される不快な感情や葛藤が、怒りや苛立ちで私たちを翻弄し、やがて疲れ果て、絶望にも追い込んだりしています。

 そして心の平穏を求め、私たちは雁字搦めになった葛藤や判断基準と折り合いをつけ、一つひとつ解いてゆこうとします。人生とは不思議なものです。後天的に身につけたものによって苦しみもがき、やがて安らかな自由を求めて、生まれた頃のようになってゆく。人生の苦難を乗り越えた年配者の屈託ない笑顔が、生まれたての赤子のようであるのも頷けます。

 

 現実の世知辛い社会を生きていると、「世の中うまくいかない」と実感する場面が多いのではないでしょうか。何かしようと思ったことを、目のまえに現れた誰かが先にしてしまったり。これは間違いないだろうと考えたことが、裏目に出たり。プリントされた紙の束があったとしたら、私たちは必要な枚数をぴったり取れるとはそもそも考えていません。何枚か多かったり少なかったりするだろうと思い込んで取ります。「世の中うまくいかない」という世界観が前提になっています。

 これは経験則からいうと、負の感情を生む判断基準や葛藤に縛られているから起こる現象のようです。後天的に取り入れた葛藤などを解除していくと、不思議と人生はスムーズになっていきます。個々人の心の内部にとって、葛藤や負の感情を生む判断基準が屈折を起こす部品として機能しているので、私たちが真っ直ぐな意志を発しても沢山の屈折する部品にあたって、外界に表現されるころには真逆になっていたりするのです。

 

 周りの環境が私たち個人や集団の心の表れだとすれば、争いや戦いに満ちた世界の混乱を収めるには、私たち一人ひとりの心の葛藤を静めなければならないでしょう。

 対外的に使っているキャラと理想の自分が分離した状態が葛藤を生む正体だとすれば、現状のありのままの自分を認めてあげることで心の落ち着きが戻ります。また葛藤の主要なエネルギー源は競争心です。競争のフレームを脱ぎ捨てることで、葛藤は勢いを失い風前の灯火のようになっていきます。

 

 世の中のスポーツや映画、ゲーム、主要なほとんどが戦いや争いで成り立っています。心が平穏を取り戻すにしたがって、何気なく見ていたドラマの「音」が狂気に満ちていたのだと気づくかもしれません。そうして世の中の競争性から距離を置くにしたがって、自分の周りの環境が平和を取り戻していきます。そして人生がスムーズに展開してゆく様子に気づくころには、声にも変化が起こります。安定した安らかな心は、発する言葉とも整合性が取れて、自分でも驚くほどの確信と自信が、発する声に含まれるようになっていきます。

cocoro-odoru.ya

テキストのコピーはできません。