「競争原理」という人類史最大の嘘

   人類の歩む「理性」という道
 
 現代まで、私たち人類全体が歩んできた道をひと言でいい表すなら「理性の道」ということができるでしょう。あなたが考え、感情が生まれ、生きていく上での拠り所となる中心、それが「理性」です。一般的には「感情的」に対して「理性的」をあてた二項対立として使われることも多いですが、実際には感情は理性の影響下にあるといえます。人それぞれの人生で採用した価値判断の基準は理性に包含されていて、理性のフィルターを通した価値判断によって、感情が沸き起こっています。理性が吹き飛ぶような感情の爆発が起きたとしても、一時的な感情のエネルギーが無くなれば、もと通り理性が機能していることに気づきます。
私が整理するなら「理性」には「意志」が対立項となり、それらは共に人間の行動原理の中心となり得るものです。理性は「言葉」を通して世界を描写し、意志は直接「行動」することで世界を把握します。
想像するならば、人類が初めて言葉を発したとき、理性の輝きが生まれたのではないでしょうか。それ以前は「意志」を行動原理の中心として、心の中の内的対話もない真っ新な精神で、選択した瞬間に行動するような、直接行動をしていたことでしょう。
その人類に言葉が生まれ、何か物や合図を指し示すだけの単語から、法則に従った体系的な統辞法に発展していくなかで、人類が歩む「理性」という道が確実にならされていったのだろうと考えています。人類が「意志」から「理性」へと行動原理の中心を移したことは決定的な人類史の分岐点となったことでしょう。
「意志」を中心とした言葉を介さない直接行動の時代には、人類は自然の環境と溶け合うような一体感を当然の感覚として生きていたと想像できます。それが「理性」へと中心を移し、人間が初期社会を作るなかで各人の自我が強固に形成され、各々が独自の多岐にわたる価値判断の基準を採用し、自我が複雑に確立していくに従って、人間と自然の分離感は増していきました。
現代人のなかに瞑想する人たちが増えていますが、それは心の中の独り言を止めて、言葉の連鎖を中断することによって「理性」から離れ、人間のもう一つの中心点である「意志」に立ち返ろうとする試みと解釈することもできます。
 世界の様々な言語は違っても、それぞれの母国語をつかさどるシンタックス(統辞法)は「論理」をラインとして理性とやり取りし、心の中の独り言(内的対話)を通じて感情をかき立て、行動を促し、世界を解釈しています。
 人類が理性の道を歩んでいるといっても、世の中には理性的でない人がいるように思えるかもしれません。しかしその人が言葉を話しているなら、理性を中心とした行動様式に沿っているといえます。
 
「理性の道を歩む人類」を視覚化するなら、図1のイメージはいかがでしょう。中心から離れたドーナツ状に光の輪が集中しています。これらの点ひとつ一つが、ひとり一人の人間を表しています。大多数の人々が、理性の中心から少し離れた場所に位置しています。この一つの点の「位置」は、その人が世界を見る「視点」になります。

図1 理性を中心とした人類の集合点

そして中心に行くほど光の点は少なくなり、まさに理性の中心に自分を位置する人、その人間こそが、人類の真の指導者といえるでしょう。しかし理性の中心に位置する稀な少数の人たちは大抵の場合、人前に出ることを好まず、ひっそり道端で掃除をしているような、静かな生活をしている場合が多いようです。でも実際に会えたなら、言葉の抑揚の美しさ、包み込むような優しさ、すべてを許されるような寛容さ、全身から放たれる輝きに気づけるのではないかと思います。

 図1を色分けしたものが、図2になります。人類全体が理性の道を歩んでいるので、時とともに光のドーナツ全体が、理性の中心に近づいていきます。そしてドーナツ状から外側に離れた光の疎らな点、これらの点ひとり一人は「常軌を逸した」と形容できるような、およそ理性的な反応を示さない人たちです。

図2 理性を中心とした人類の集合点(色分け)

 ドーナツ状の赤色で示した外縁に位置する人々は、支配欲や権力欲が強く、名誉や人気、影響力を求めて、政治家や芸能人、企業や団体、マスメディアの役員など、人生の時間と精力を社会的な成功や欲望の成就に使い果たす人が多い位置だなと私には見えます。本質的な成功とは相いれない、人間社会が作り上げた刹那的成功を妄信できる単純さが、ある意味で力になっている人たちです。
 そしてドーナツのまばゆい本体は、人類の大多数が位置するところです。ドーナツ本体の紫色で示した外側に位置する人々は、赤い外縁の社会的成功者を羨ましく眺める人が多いようです。社会的成功を妄信して人生の全エネルギーを費やすほどの単純さまでは至らなくて、それでも赤い外縁の人に憧れる人たち。人類が歩みを進める理性の中心とは「逆」を見ているのが紫色の人々です。ここら辺に位置する人たちがインターネットや社会のいたる所で誹謗中傷や罵り合いの議論をする人たちのように思えます。しかし言い争う相手がドーナツ状の右と左、正反対の違った視点から現実世界を見ているのですから、妥協点など有るはずもありません。
 ドーナツ状の緑色で示した中道に位置する人々は、人類の大部分を構成する人たちです。外側寄りだったり、内側寄りだったりしながら、その多くは自らの「手のとどく範囲の生活」に注意を向けています。
 そしてドーナツ本体の黄色で示した内側の人たちや、青色で示した内縁に位置する人々は、社会の現状や行く末に関心を持ち、ボランティアや社会に貢献する活動、真理や世界の美しさを表現する人たちが多いようです。この位置に視点を取る人たちの行動や発言は、周りの共感者も多くなり、社会をより良い方向に導ける人たちです。理性の中心に近いほど精神性が発達していることもあって、この位置の人々は支配欲や権力欲を妄信できる単純さがないので、結果的に社会を動かす実質的なポジションに就くことが少なくなってしまいます。
 ドーナツ状の青色で示した内縁の範囲を超えてさらに中心に向かって疎らに点在する人たちは、もはや宗教や知の体系を実践する求道者のような人たちかもしれませんね。人間社会が提示する価値には影響を受けない、独自の生活をする人も、この位置にはいることでしょう。この位置に視点をもつ人々が社会に向けてメッセージを発しても、広くは伝わりません。その理由はこれまでの歴史でも散見されてきたように、彼らの発言は人類の行く末を照らす重要なメッセージであるにもかかわらず、周りに同じような視点から世界を見る人がいないため賛同者が現れずに、広く人々に伝わらないまま、その先進的な意見は忘れ去られてしまうのです。
 
 ここまでの「理性の道」を視覚化した説明に同意していただけるのなら、我々人類の文明が抱えている深刻な問題についてクリアに理解されていることでしょう。理性の道を歩む人類を先導するはずの光のドーナツ本体の青い内縁の人たちが社会のイニシアチブを取るのではなく、赤い外縁の支配的で貪欲な人々が実質的な権力を握り、ドーナツ状の紫色の外側の人々は進むべき中心とは逆の方向に注意と関心を向けている。これが少なくとも数千年続いてきた、人類の抱える明確な問題点です。
それがここにきて世界的な構造の転換を示唆する出来事が多発しています。まったく新しい時代とは、社会を先導する「力」がドーナツ状の外縁の人々から、本来自然である内側の人々にシフトする大転換を契機に始まるでしょう。それは気づかないほど緩やかに、生活へ浸み込むようなシフトであったとしても、その大転換を伴はなければ旧来続いてきた時代と同じ構造であり、「新しい時代」とは呼べないのです。
 
 理性の道を歩みながら、人類はどんな進歩をしてきたのでしょうか。私が考えるには、人類の身体に染みついた「野蛮さ」を一つひとつ、その身から剥ぎ取ってきた過程が人類の歴史であり、その進歩であったと思います。「理性の道」をひと言で表すなら「野蛮さからの離脱」だと言えます。世界を見渡せば人と人が殺し合い、動物たちを殺し、野蛮さに満ちているようにも見えますが、世界はグラデーションです。ドーナツ状の内側に位置する人たちは、こういった人類の野蛮さを無くさなければならないと活動し、話し合っています。行きつ戻りつ、大過を犯しては検証し、新たな誓いを立てて、人類は少しずつ理性の中心へと歩みを進めています。いじめやセクシャルハラスメント、体罰や誹謗中傷など、一つひとつ焦点をあてては野蛮さを克服しようとしています。
 そして人類に残った最後の野蛮さ、それが「競争」です。

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