「競争原理」という人類史最大の嘘

  「閉じた頭」と「開けた頭」

 私たちは科学を信じています。科学や学問は仮説や理論をたて、再現性のある実証によって確かめられたことを一つひとつ積み上げていくので信用できます。私が疑問に思うのは、科学や学問に向ける分別ある眼差しを、何故ほかの知見に向けないのだろうか、ということです。その意味で私たちは、科学や学問を「妄信」しているといえます。科学の究極の目的が「宇宙の真理を知る」とするとき、私たちは排他的になってはいけないはずです。その真理が、私たちの知る物質世界を超えたところに作用の元があると仮定するとき、いまの科学的な手法では関知しようもありません。

これまで世界のいたる所に、知の探求者がいました。彼らは、取り巻く宇宙の真理に辿り着こうと人生をかけて実践をしてきた人たちです。それは宗教の行者だったり、ローカルに発展した知の体系を実践する者だったりと、彼ら知の道を歩む実践者が、古代から積み上げてきた膨大な「知見」があります。真理に辿り着こうとする科学者と同じインセンティブによるものです。彼らは疑わしい教えをもとに、その人生を無駄に費やしたのでしょうか。もし私たちに偏見のない分別があれば、古代から幾世代にもわたって蓄積されてきた実践者たちの「知見」を、科学の先鞭として使われる「仮説」と同じ重要度をもって検討するはずです。そういった真摯な態度をもたないのであれば、私たち現代人は科学の妄信者というレッテルを避けられないでしょう。

 

科学の妄信者である私たち現代人を「閉じた頭」と呼ぶことができます。私たちは「疑い」を前提とするので、データやエビデンスを要求します。そして少し安心すると「迷いの世界」を半歩だけ進みます。何事にも疑いを向ける「閉じた頭」の人々。でも不思議なことに、データやエビデンスの前提となる「客観的で不動の現実」が本当に存在しているのかについては疑いの対象とせず、無条件に受け入れています。

 

一方で知の探求者が格闘してきた科学以外の様々な知見までも検討の対象とする「開けた頭」の人たちは、宇宙の真理に辿り着こうとした古代からつづく探求者たちの努力に敬意を払い、膨大に積み上げられた知見を隈なく調べ上げていきます。実践宗教や独自に発達した知の体系の教えを横並びにして、それぞれに共通する知見を抽出するといった手法によって、より真実性の高い教えの公式を見いだしていきます。

 

自分のアタマは本当に閉じているのかもしれない、ということを実感していただくために、次に挙げる例を、自らに起こったこととして想像してみてください。

手の指の爪がはがれてしまったという、ちょっと痛い夢の話です。

はがれた爪を見て、あなたも周りにいる人たちも混乱して大騒ぎです。そこで誰かがクギで刺してとめれば大丈夫だといいます。誰もが名案だと納得して、一人の者がカナヅチを振りかぶりました。クギで刺してとめるんだからズレたら大変だと、みんなで爪を押さえます。カナヅチをもつ人は責任重大、振りかぶる手がふるえています。みんなが必死に爪を押さえようとしますが、すぐにズレてしまいます。「早くしないと、ちゃんとつかなくなっちゃうよ!」誰かが叫んだとき、夢から目が覚めました。

夢から覚めたあなたは認識力が広がって、何て馬鹿げた夢だろうと思うことでしょう。けれど、さっきまでいた夢の世界ではクギで刺してとめることが最善策であったし、疑いようもありませんでした。これが「閉じた世界」による「閉じた頭」というものです。

では翻って、この現実世界は「閉じた世界」ではないのでしょうか? 普通の感覚であれば、それはないと思うことでしょう。あなたは夢の世界と違って、色々なことに何にでも気がついていると感じます。でもさっきまであなたがいた夢のなかでも、その世界のすべてに気づいているということに疑いはなかったのです。その上の判断として、はがれた爪をクギで刺してとめるのが最も良い方法だと思い込んだのでした。

 

私たちが日常で確信していること、例えば数日後に予定している仕事はとても重要だと考えていること、この試験に受からなければ将来の計画が狂ってしまうと考えていること、いまのままの自分の容姿じゃ生きていく意味ないと思っていること。その他のあらゆる考えが、はがれた爪をクギで刺してとめるような閉じた思い込みだとしたら。

大人になれば思い込んでいる人に対して感じるでしょう。試験に落ちても違う道があるよ、外見なんて個性的でいいと受け入れれば自由に人生を楽しめるさ、などと声をかけるかもしれません。それは試験や容姿にとらわれている人たちよりも、人生の経験によって世界が広がったからだといえます。けれど試験や容姿を思い込んでいる人たちにとってみれば、どんな言葉をかけられても意味がありません。なぜなら認識できる閉じた世界の狭さが思い込みを作り上げて、自由度を奪うからです。むかしの自分を思い出せば「なんであんな事を思い込んでいたんだろう」という経験は誰でもあることでしょう。それは若い頃の自分よりも、人生経験によって世界認識が広がったからだと分かります。ということは、若い頃の自分は「閉じた世界」にいたことになります。

では、あなたが生まれた国の例えば「自分は日本人」だと疑いようもなく確信していることでさえ、閉じた思い込みだとしたら? それはあり得ないと簡単に切り捨てることなく、想像力によって認識の範囲をずっと遠くまで広げてみてください。私たちは爪をクギで刺す夢のように、馬鹿げた夢から目覚めた経験をもっています。閉じた世界で確信していたことでも、世界の認識が広がった後では「なんて馬鹿げたことを信じていたんだろう」と明晰さをもって判断することができます。

例えば「光はまっすぐ進む」という与えられた考えも、何十年後かに「光は螺旋状に進んでいる」ことが発見されたとしたら、「光は波であると同時に粒である」と思い込んでいた現在は、ある意味で「地動説」の時代にあることになります。

もし私たちが無意識に思い込んでいることに注意深くなって、自覚的に立ち止まり、自らの内面を点検できるようになれたなら。「開けた頭」の人とは、どこまで知覚を深化させ世界が広がったとしても、それは至ったレベルの拡大した認識であって、相変わらず「閉じている」ということを知っている人のことだろうと思います。悟りに至った聖者でさえ、新たな宇宙での新たな気づきが必要なのかもしれません。

 

私が「閉じた頭」の現代人について思ことは、科学の妄信者としてその確実性と引きかえに、宇宙の真理を解き明かすという目的には「遅すぎる」という方法論的な問題を孕んでいる点です。故に私たちが手にする最先端のテクノロジーでさえ、いまだに0と1の計算機が精一杯という現状です。その遅さの原因は、他者に「証明する必要性」から抜け出せないことにあります。「迷いの世界」の宿命ともいえるでしょう。

他方で「開けた頭」の人たちは、人間の意識を拡大することによって宇宙の真理を解き明かそうとした先人の手法を、方法論的に排除しないという中立性を持ち合わせています。そのフラットなスタンスが導く直感は、0と1の離散的な表現で動く計算機では、分離した世界観の範囲でしか機能しないという見切りを導くのかもしれません。

宇宙の真理を探る上での方法論として「開けた頭」の人たちによる手法が優位性をもつ理由は、その「速さ」にあります。世界の様々な地域で発展した知の体系は互いに交流がなくても、人間には通常と異なる高められた知覚状態があることを同様に示しています。この知覚状態では知り得るはずもない知を引き出すことができ、回答として得た知が疑う余地のない「自明」であるが故に、他者へ証明をして認めてもらわなければ、といった衝動が起きません。ただ知る。これが真理を探る上での速さを実現しています。

 

実践者が疑いようもなく「自明」だと知覚した状態をも、閉じた世界の閉じた「思い込み」だとする可能性は排除できないでしょう。それでも実践者は体感しています、通常よりも圧倒的な広さで認識が拡大していることを。爪をクギで刺してとめる夢から覚めたあなたが、圧倒的に認識の広がった現実を体感しているのと同じように。現実の認識レベルでは閉じた夢のレベルよりも確実に広範な、包括的な判断力を手にしています。私たちの誰もが、このことを体感する経験をもっています。自明の知を得た実践者も同様に、現実レベルよりも確実に広範で包括的な判断力を手にしていることが分かるわけです。自らが認識している広がりによって、気にも留めなかった微細な変化や揺らめきまでも圧倒的な生々しさをもって関知している状態によって、普通の現実よりもさらに広範な包括性は自明なわけです。現実で思い込んでいた何かが、本当に馬鹿げた考えだったのだと透き通るような明晰さをもって「知る」わけです。「知った」ことについて、他者に証明しようとする必要性を感じません。あなたが爪をクギで刺してとめる夢が間違った判断だと、誰かに証明する必要性をまったく感じないのと同じように。これが意識の認識力を広げることによる「自明の知」という技術です。

そして何より、誰でも自分の意識のどこかで知っているはずです。感覚が明晰に澄みきった知覚状態があることを知っているはずです。誰もが知っているからこそ、超然とした高僧のようなイメージを見れば、明晰な自明の状態にあるなと分かります。映画や文学では上手く表現されています。マトリックスでもネオが終盤に、悟りのような高められた知覚状態に入ったなと、見ているもの誰もが分かります。皆さん、忘れたふりをしているだけではないですか。

 

自明の技術を利用しないまま、人類文明のメインストリームは「迷いの世界」に入り込んでしまいました。生活の様々な選択の場面で何が正解なのかと迷いながら、社会が提示した「正解」を鵜呑みにしています。

そしてこの「迷いの世界」をオーガナイズしているのが「理性」です。

理性の本来の機能は、世界を記述することです。宇宙の根源的な抽象エネルギーを、理性という小さすぎる器でも知覚可能な「物質世界」という描写にコンパイルする働きが本来の機能です。しかし人類が社会を形作ってゆく過程で、理性は本来の機能をこえて大きな荷物を背負わされてしまいました。

私たちの理性は後天的に採用した価値判断を基にして、思考や感情、行動を促しています。その繰り返しのなかで理性は、休むことなく監視しつづける、支配的な性質を帯びるようになっていったのです。誰か人にバカにされていないか、これは得か、損をしていないか、騙されていないか。そうやって理性は本来の機能をこえて、世界の「支配と管理」を課せられてしまいました。それをしなければ目の前の世界が崩壊してしまうのではないかと言わんばかりに休むことなく。

私たちはそろそろ、理性が背負う大きな荷物をおろしてあげる必要があるのではないでしょうか。

 

 いま起こっている世界の変化は、新しい時代を予感させます。それは量子分野での研究成果などによって、閉じた頭の人類文明が無検討のまま前提としてきた「客観的で不動の現実」が揺らいできたからです。

閉じた頭の人々がもっている凝り固まった世界観に、柔らかさや偏見の無さといった変化への種が蒔かれていくようです。そうして少しずつでも「開けた頭」へと、時代の転換へ向かう揺さぶりになっているように感じます。

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